泉 智等
出 身・・・麻植郡鴨島町鴨島殿郷(現、吉野川市)
生・・・1849年(嘉永 2年) 1月11日
没・・・1928年(昭和 3年) 9月26日
享 年・・・80歳
幼 名・・・直蔵
号・・・物外
略 歴・・・花桝伊兵衛の五男として生まれる。
万延 元年(1860)11月、板野の荘厳院、硯道和尚について出家し、 真猛と称した。
元治 元年(1864)、芝秋邨塾で、漢籍を学んだ。
明治 元年(1868)、五年間、高野山で仏教学を究めた。
明治 6年(1837)、五年間、京都智積院で仏教学を究めた。
明治12年(1879)より明治26年までの14年間、真言宗布教師として全国を巡錫する。そしてその間、徳島県泉福寺・荘厳院、高野山円通寺、長崎県延命寺、山口県満願寺、奈良県吉祥寺など、30余りの寺院に転任した。また、函館市高野山、鹿児島市大乗院などを復興した。
明治19年(1886)、大僧都となる。
明治33年(1900)8月9日、京都御室派の仁和寺の35世門跡となる。
明治41年(1908)、京都泉涌寺管長になる。16年間職を勤めた。
明治43年(1910)8月、真言宗連合京都大学総理、兼中学校校長に就任。
大正 3年(1914)4月、真言宗大學総理、兼真言宗京都中学校長に就任。大僧正になる。
大正12年(1923)、高野山管長に就任。同11月29日、真言宗総本山金剛峯寺の座主に就任。
大正13年(1924)、真言宗連合総裁に就任。
大正14年(1925)、高野山・御室・大覚寺の三派合同の古義真言宗管長に就任。
その後、弘法大師1100年御遠忌事務局を設置し、宗祖空海の顕彰に努めた。
また、真言宗京都大学と高野山大学の総長として宗門教育に努めた。
明治より大正にかけての日本真言宗における最高の地位と業績を誇り得るに足る高僧である。
主な特徴・・・物外と称し、書画を良くした。
特に、水墨山水・四君子(蘭、竹、梅、菊)を描くのに妙を得ていた。
高野山と地元の鴨島に、銅像が建立されている。
※返品OKです。一度手に取ってお確かめください。
但し、返品に伴う送料、返金に伴う手数料はお客様にご負担願います。ご了承ください。