トップ > 掛軸 【阿波の作家】 > シ-0009 柴野 栗山 ≪書≫
シ-0009 柴野 栗山 ≪書≫
柴野 栗山
出 身・・・讃岐国三木郡武例村(現、香川県木田郡牟礼町宗時)
生・・・元文 元年(1736)
没・・・文化 4年(1806)12月 1日
享 年・・・72歳
名・・・邦彦
通 称・・・彦輔
号・・・栗山、または古愚軒
略 歴・・・八栗山の麓で生まれたので、「栗山」と号したという。
10歳で、高松藩濡〈後藤 柴山〉の門に入った。
宝暦3年(1754)、江戸に赴き、昌平學に学んだ。
明和2年(1766)、京都に移り、〈高橋 宗直〉に国学を学んだ。
明和4年(1768)、〈合田 如玉〉の斡旋で、徳島藩主〈蜂須賀 重喜〉
に仕え、禄高百五十石を給された。
明和5年(1769)、徳島に赴任するが、再び江戸に出て藩主重喜、および
世子治昭の侍講にあたった。
明和8年(1772)、京都堀川に住まいを移し、家塾を開校した。以降、侍
講のために江戸に往来したが、阿波へは藩主の葬儀以外に帰ることはな
かった。
天明8年(1789)、幕命に応じて江戸に行き、53歳で幕府の儒官となっ
た。その後、前年に老中に就任した〈松平 定信〉の信頼を受け、学制
改革に着手した。それは『寛政異学の禁』と呼ばれ、寛政改革の一環を
成した。
この時代の代表的な学者として、栗山を筆頭に『寛政の三博士』と称さ
れた。
文化4年(1807)12月1日、江戸の駿河台にて自らの墓碑を書して亡く
なった。
墓は、東京都文京区大塚の大塚先儒墓所にある。
没後、遺言により蔵書約九千冊が、蜂須賀家に寄贈された。のちに〈屋
代 弘賢〉から寄贈された六万七千冊の《不忍文庫》とともに、《阿波
国文庫》となった。
主な特徴・・・交友関係は広範囲であった。
京都では、〈西依 成斎〉〈皆川 淇園〉〈赤松 滄洲〉らと、『三白
社』を結成して、詩作した。また、地理学者〈長久保 赤水〉、産科医
〈賀川 子啓〉、国学者〈屋代 弘賢〉〈高山 彦久郎〉、蘭学者〈杉
田玄白〉などと交流があり、幅広い知識と見識を養った。
主な著書に、『栗山文集』『栗山逸文』『栗山堂詩集』『栗山上書』『
学事意見書』『国鑑聖賢図像考』『雑学類篇』『対相四言』『資治格言』
『冠服考証』『諸家人物志』『続近世叢語』『事実大編』『名人忌辰録』
、などがある。
※返品OKです。一度手に取ってお確かめください。
但し、返品に伴う送料、返金に伴う手数料はお客様にご負担願います。ご了承ください。
-
* 本紙:紙本
状態:良/表装替済/新桐箱収納
本紙寸法:丈132cm/巾28cm
全体寸法:丈194cm/表装巾40cm
-